フェチ、言葉、「わたし」

文学部で哲学を学ぶ男子大学生が「わたし」、言葉、フェティシズムなどについて考えます。

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【どんな人なの?】流動する「わたし」

昨日の記事の続きのような話になると思います。

 

生きていると、「あなたはどんな人ですか、アピールしてください。」と言われる場面に多々遭遇しますよね。

 

学校の自己紹介、バイトや就職をするときの面接(バイトのときはそうでもないか?)、SNSのプロフィールなどなど……。

 

ぼくはこれが結構苦手です。自分がどんな人間なのかを言葉にすることに対して、迷いに迷ってしまうんですよね。たとえばtwitterのbio欄もしょっちゅう、ちょこちょこ変えています。

 

自分のことを言葉にする訓練が足りていないんだ。

自分のことをまだよく知らないんだ。

 

そう思うときもありますが、この考え方にはあまり納得できません。というのも、

 

そもそも、「わたし」というものは言葉で捉えられるような決まったかたちをしているようなものなのか?

 

という疑問が湧いてくるからです。

言葉というものは、一度表に出すと決まったかたちと意味をもたらします。「石はかたい」「雪はつめたい」「わたしは○○な人間です」……。

 

たとえば、「きみはSとMとどっちなの?」と聞かれたとしましょう。これは典型的な二項対立ですよね。

つまり、わたしはSですと言えば、じゃあMじゃないんだね。

Mですと言えば、じゃあSじゃないんだね。

普通に考えると、SでありかつMであるということは成り立ちません。

 

しかし、もうすこし掘り下げて考えてみたい。

SでありかつMであることって、本当にありえないことでしょうか?

おそらくそんなことはない。むしろどちらでも興奮するという人は、結構多いんじゃないかと思います。

SまたはMという性質の入れ替わりは、時間による時もあれば、場所や関係によることもあるでしょう。

このような矛盾が成立するのは、人間という存在が単純で、論理的にかっちり固まったミクロなものではなく、複雑な要素からなるマクロなものだからです。

 

そう考えると、「わたしはこういう人間です」と自己紹介をすることは、時事刻々と変化し、内部に矛盾したものすら抱え込むことのできるような複雑な存在を、一面的なことしか表せない「言葉」というもので掴み取ろうとするような、不可能ごとをやってのけることになります。

流しそうめんを考えてみてください。流しそうめんを箸ですくい取ろうとしても、多くの麺はあえなく流れ下っていきますよね(すごい執念で全部掴み取る人もいますね)。自己紹介をするときにこぼれ落ちていく「わたし」も同じようなものだと思います。

 

自己紹介というものは、決まったかたちと意味を与える「言葉」によって、かえってすくい取れなかった「わたし」を覆い隠してしまう「自己隠し」でもあるのではないでしょうか?