フェチ、言葉、「わたし」

文学部で哲学を学ぶ男子大学生が「わたし」、言葉、フェティシズムなどについて考えます。

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催眠と瞑想と脳イキ

ヨガやマインドフルネス、瞑想ってやったことありますか?

 

忙しない日常を忘れ、あらゆる執着や判断を消し去り、「今この瞬間」に意識の全てを向ける。

 

もともとは仏教修行で用いられます。ブッダが悟りを得たのは、沙羅双樹の根元で瞑想をしている時でした。

禅宗では坐禅を組んで「無心」になることが大事なことですよね!

 

 

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瞑想のイメージ。ちょっとスピリチュアルすぎ?

 

実際にやってみるとなんとなく気持ちよく感じて、心がスッキリする気がします。

 

実際に脳にも影響のあることが検証されているそうです。

最近読んだこの本に書いてありました。

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 僕はスピリチュアルにはシンパシーはありませんが、人間の脳と心のつながりについてはとても関心があります。

 

あと、フェチ? SM? プレイの一つとして、「脳イキ」っていう言葉がありますね。

性感帯に触れて肉体的なオーガズムを得るわけではなく、言葉や精神集中によってまさに脳からオーガズムを得る。

体に全く触れずにオーガズムを得るという点で、フェチプレイの中でもひとつの到達点という気がします。

 

ぼくは持ち前の好奇心で脳イキに挑戦したくなって、催眠音声に補助してもらって(多分)脳イキを達成したことがあります。

www.dlsite.com

 

 

こういう話って、体験しないとわからないから信じない人も多いと思います。

仏教の実践がスピリチュアルと同一視されてしまうのも、はたから見ていてもわからないというところにあるのだと思います。

 

ぼくはここで瞑想や脳イキをすることを勧めるわけではありません! 実際、きちんとした指導のもとでやらないと、自律神経などのバランスを崩すと言われています。

(催眠音声やASMRは、精神の調子が悪い人は聴かないように!という注意があります。)

 

ぼくが今日の記事で言いたいことは、

 

催眠で脳イキすることと、瞑想は同じことなんじゃないのか?

 

ということなんです。

 

 

催眠音声で指示されることは大きく分けて二つあります。

 

一つは、上にも書いた通り、とらわれないこと。

催眠にかかろうかかろうと思ったり、逆にこんなもの信じられないと思ったりして、自分の思考に縛られてしまうと、催眠は非常にかかりづらいと言われます。

とにかくぼ〜〜〜〜っとして、頭の中に浮かぶ思考やイメージが現れては消えてゆくままに任せること。一切の判断をしないこと。

まずはこういう姿勢が求められます(この時点で眠くなる人も多いです笑)。

 

もう一つは、受け入れること。

催眠をかけてくれる人の声や、頭に浮かぶ色々なものごとを受け入れ、それに対して心を開くこと。

自分の考えにとらわれている間は心を開くことができません。

とらわれない心的状態に移ることで、同時に受け入れる準備にもなります。

 

そして、準備がきちんと整ったら催眠がかけられ、脳イキへと導かれていきます……。

 

 

 

どうでしょう?

催眠音声に求められる二つのこと、瞑想をしたり坐禅を組んだりするときに大切だと言われていることと全く同じではないでしょうか?

 

ぼくはどちらも経験したことがあるのですが、体の内側で感じることも、ほとんど同じです。

「自我が溶け出してふわふわする」、「すーっと落ちていく」と表現されますよね!

 

禅の大家である鈴木大拙は、このことを「無心」と言います。

 

無心ということ (角川ソフィア文庫)

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うまく瞑想で「入り込める」人は、脳イキにも相性が良いのかもしれません!

あるいは脳イキすることで、マインドフルネスのような効果もあるのかもしれません。

 

 

こんなことをかくと怒られそうですが、ぼくは

 

ブッダの「悟り」というのはかなり深い「脳イキ」のことなのではないか?

 

と思っています。

「悟る」という言語化不可能な現象。世界観が変わってしまうような体験。それは自分の頭の中も変えてしまうのでしょう。

 

催眠、瞑想、脳イキは人体の大きな不思議の一つだと思います!

ぼくはこれからもこの現象について色々と考えていきたいです。

 

 

上で書いたようにリスクもあるので、しっかりやり方を学んで、自己責任で行いましょう!!

「男らしい」人、好き?

男らしい人、かっこいいですよね!

 

歴史上の人物なら西郷隆盛武田信玄(イメージ)、現在の人なら吉川晃司さんやTOKIOの長瀬さん、二次元だとONE PIECEの白ひげやSLAM DUNKの赤木キャプテンでしょうか?

 

こういう人たちって、どういう面が「男らしい」と言われるのでしょう。

つまり、「男らしい」とはどういう性質のことを言うのでしょうか。

 

「男らしい」の使われ方に注目して、明らかにしてみたいと思います!

 

「男らしい」の類義語としては、「リーダーシップがある」、「甲斐性がある」などがあげられると思います。

「猛々しい」とか「益荒雄」なんていうのもありました。

 

kotobank.jp

 

いくつか要素をあげてみたいと思います。

 

精神面

・とにかく、何かを決めることができる。うじうじ悩んだりしない。

・人に支えられるのではなく、逆に人を支えてあげることができる。

・細かいことは気にしない。豪胆である。

 

肉体面

・筋肉がすごい。側から見るとかたそう。角ばっている。

・髪の毛は短いけど、体の毛はこい。

・スキンケアやメイクをしない。

 

こんなところでしょうか? 要素の拾い方が乱暴すぎる!って論争になりそうだ……。

 

ともかく、以上のような要素をまとめて「男らしい」と言っているのです。

 

 

「男らしい」ことには、いい面がたくさんあります。

 

まず、決断力があるひとは魅力的ですよね。

決断すると、ものごとが動いて前に進みます。自分の力でものごとが動いていくことって、結構怖いことだと思います。

それに、決める人は結果に責任を持たなくてはいけません。

たとえ自分の予期しなかったことが起きて結果が悪い方へ転がっても、「わたしの決めたことですので。」と言って責任をとらなくてはいけないのです(その代わり、良い結果が出ると後世まで語り継がれ、英雄になることができます)。

このようなことを我が身に背負う覚悟があること、これはとても素晴らしいことです。

 

次に、今言ったことと関係していますが、決断するということは回りを支えるということにもなりますよね。

「わたしが決めたことだから、責任はわたしが取る。このグループのみんなは、失敗を恐れることなくやってほしい。」という一言は、グループのメンバーをどんなにか安心させることでしょう。

カップルだったら、「君のことはぼくが守るから、大丈夫だよ。」という言葉になるのかもしれません。

 

加えて、決断する、回りを支えるということは、細かいことを気にしないということに繋がってきます。

たとえば決断するときに「でもこっちを選んであれこれのことが起こってとんでもないことになったらどうしよう。」と思っていたら、決断できません。

結果が失敗に終わった時に、犯人探しをしたり原因探しに明け暮れていたりすれば、責任を取ることはできません(原因探しは別のかたちできちんとやらないといけないですけどね!)。

多少のことなら気にせず受け流す、あるいは受け入れる。そして出た結果の責任を何はともあれ引き受ける。このような「男らしさ」は、細かいことを気にしないことには不可能なことでしょう。

 

 

言葉の使われ方とかを気にしている時点で男らしくないということになるのかもしれません!(泣

 

 

肉体的にも、「男らしい」魅力というのはありますね。

ぼくはまったくのストレートですが、男性の肉体美にも惹かれることは少なくないです。

最近は、毛が多いのはむしろ「不潔」として嫌われる傾向にありますけどね。ぼくも体中の毛を剃り尽くしたいです!!

 

 

 

と、見てきたところで、次は「男らしい」ことの悪い面を見ていきたいと思います。

実は、こっちが本題だったり……。

 

「男らしい」ということは、はっきり言うと「ガサツだ」ということでもあると思います。

 

「決断する」ということは、色々な選択肢がある中から「これ!」と決めることですよね。

他の選択肢たちからすると「捨てられた」「無視された」ということになります。

これは別に悪いことではないです。

決断することは常に捨てること、無視することとコインの裏表なのです。

実際、「あれもこれも」とあらゆることを考慮すると決断を下すことができません。

 

政治的決定ではしばしば「どの人たちを救って、どの人たちを無視するか」の選択になります。

この時、無視された側の人たちは当然怒りますが、これは仕方のないことだと言えます(だからといって、無視し続けていいわけではないですけどね!)。

 

「決断する」ことのデメリットは、「細かいことを気にしない」ことにも現れてきます。

相手やグループのことをグイグイ引っ張っていくためには、「これって相手はどう思うかな?」、「こういう決定をするとこういう悪いことが起きそうだな……」というような「細かいこと」は気にしていられません。

この時重要なことは、決断する時に無視される「細かいこと」は、本人にとってはまったく「細かいこと」ではないということです。

 

カップルが喧嘩をする原因は、相手にとって「細かいこと」ではない事情を、決断するために「細かいこと」にしてしまうという点にあると思います。

だから、あとでしっかりと気持ちのケアをしないと、相手は気持ちをないがしろにしてしまったと思うし、自分は「なんでそんな「細かいこと」を気にするんだ!」と苛立ってしまうことになるのだと思います。

 

 

今の政治の難しさもここに深い根っこがあるとぼくは思います。

今は、一人一人の価値観を傷つけないことが求められる時代です。

同じ同性愛者でもいろんなグラデーションがある。同じ富裕層でもいろんなグラデーションがある。同じ国民でもいろんなグラデーションがある。……

でも政治的決定では、上に書いたように「決断する」ために「細かいこと」を切り捨てなければなりません。

決断することと多様性は、非常に相性が悪いものなのでしょう。

 

 

「男らしい」人は確かにかっこいい。

フェミニズムが大きく台頭した現代でも、多くの女性は「男らしい」人が好きだし、男性の憧れも「男らしい」人に集まりがちです。

でも、「男らしい」という言葉・性質は、取扱注意なのかもしれません。

 

「男らしい」人、好きですか?

「フェチ」ってなんだ!

世の中にはもうすごい数のフェチがありますよね。

そんなので興奮するのも!?というのも多々あります。

 

最近だとドラゴンカーセックスっていうのを見つけました。

dic.pixiv.net

 

この記事を読んでくださっているあなたも、きっと数多くのフェチを抱えていらっしゃると思います。

あなたのフェチは、何ですか? なんて。

 

僕も人に言えないフェチをたくさん持っていますが、人に言えるようなフェチも持っています。

 

一番「きれいな」フェチは、背中かな。

 

まず肩からスタートしますよね。

折れそうなくらい細いのも良いし、逆にがっしりめでも良い。筋肉ついている人も好きなので!

 

そして、肩甲骨からくびれ付近までのライン。

この辺りは凹凸があるので、光の当て方によって色々な演出ができる、一番の映えポイントだと思います!

無数の表情を見せてくれる背中は、いつまでも見飽きません!!

 

最後に、腰からお尻にかけての曲線美。

グラビアで女の子座りしているところを後ろから撮る構図がありますよね。あのとき強調されている腰回りのラインは最強だと思います。椅子に反対向きに座っているのもたまりません。

 

背中は本当に本当に素敵だと思います。

良いお食事会用のドレスで背中がばっくりと空いているのをきている人って(海外セレブとか)結構いると思うんですけど、胸の部分が空いているよりもエロいです。

 

 

で、ここでまたぼくの気になりぐせが出てくるのですが。

 

「フェチ」って、どういう状態のことを言うんだろう? 

単なる「好き」とは違うんだろうか?

そもそもはどういう意味で使われていたんだろう?

 

というわけで、今日の記事は「フェチ」のきたるところを探ってみたいと思います。

(そんなの知っとるわ!っていう人も多そう……。)

 

 

とはいえ、「フェチ」のそもそもの出どころははっきりとしています。

 

「フェチ」というのは省略語で、本来は「フェティシズムfetishism)」と言います。

 

フェティシズム | 現代美術用語辞典ver.2.0

 

18世紀フランスの思想家シャルル・ド・ブロスが作り出した言葉です。

ド・ブロスは、人類最古の信仰のかたちを「呪物崇拝」に求めました。

 

「呪物崇拝」とは、本来ならば何でもないような歯、木片、貝殻などを「神的なもの」としてあがめたてまつることを言います。

 

この「呪物崇拝」を、ポルトガル語から借りて「フェティシズム」と名づけたのが、ド・ブロスというわけです。

 

「フェチ」はもともと宗教学・人類学の言葉だったんですね!!

 

 

さらに「フェティシズム」という概念は、『資本論』で有名なマルクスが自身の理論に取り込んだことで、人々の間に広がります。

 

すごく簡単に言うと、商品に値段がついて市場を出回るという、あの現象を「フェティシズム」になぞらえているのです。

 

 

さらにさらに、精神分析創始者ジークムント・フロイトが「フェティシズム」という言葉を自身の性の理論で用います。

 

フェティシズム」が、一種の性的倒錯を表す言葉として使われ始めるのです。

 

徐々に今の「フェチ」に近づいてきましたね!

 

 

これが「フェチ」をめぐる歴史の概観です(みじかっ!)。

 

「フェチとは何か」を簡単にまとめると、

 

本来は何でもないものに対して、「神的なもの」「神秘的なもの」を見いだすことで、そのものが持っている以上の価値をそこに見ること。

 

ということになるでしょう。

 

振り返って考えてみると、例えば「背中」というのは見た人間を性的に興奮させるために存在しているものではないですよね。

(もちろん、背中を綺麗にすることでセックスアピールを演出する人もいるけれど、「背中」自体が性的興奮のために存在するわけではないですね。)

 

でも、ぼくを含めたある種の人たちは、そこに「人間のからだ」以上の大きな価値を見いだす。

 

確かに、「呪物崇拝」と似ている気がします!

 

 

あなたが「○○フェチ」であるとき、そこにはそれ自体を超えた「神的なもの」を見出しているのかもしれません笑

 

どうしてそんなことが起きるのかを考えてみるのも面白いかもしれませんね!

 

 

思想を研究している人たちの中には、今でも「フェティシズム」や精神分析学について大真面目に考えている人たちが少なからずいます。

 

人間のいとなみを決して無下にすることなくつぶさに観察し考え抜く。

 

ぼくは、哲学のそんな姿勢が好きなんです。

「言霊」って多分こういうこと

期末レポートやテストを始末しなければならず、週末ですがせっせとレポートを書いているぼくです。

 

今日書いたのは倫理学のレポート。皆さんはふだん、倫理について考えますか? ぼくは「正しいこととは何か」ということが気になって仕方ありません。気がつくと、倫理について考えてしまっています。

 

ですが、記事は倫理学とは関係ないです。

 

「言霊」ってありますよね。言った通りになってしまうというあれです。

暗い言葉を使うと言霊で本当にそうなってしまうから、逆につらいときも明るい言葉を使おう!みたいな言説もよくあります。

 

偏屈だった中学、高校時代、ぼくは言霊なんて言われても「出た出た

笑」と思ってまともに取り合っていませんでした。

言霊なんて、あり得ないじゃん! 空を飛ぶ羽が生える!って言ったら、羽が生えるのかよ!!みたいな。

 

でも少しずつ考えていくうちに、そんなに無下にすることもないのかな?と思うようになりました。

 

昨日の記事(流動する「わたし」)で、自己紹介っていうのは変わり続けて捉えようのない「わたし」というものを、無理に言葉で捉えようとするものなんじゃないの?という考察をしました。

 

でも、自己紹介って実際にやっているわけですよね。じゃあそのとき実際には何をやっていることになるんでしょうか?

これを考えることが、「言霊」の考え方を明らかにしていく手がかりになるんじゃないでしょうか。

 

発想を転換してみます。「わたし」と言える何かがあって、それを言葉にのせて外の世界に広げていく。

「わたし」 → 言葉 の構図。

 

そうではなくて、まず「わたし」がどんな人間であるのか、あるいはどんな人間でありたいのかということを言葉で決めてしまって、それに「わたし」と言える何かを合わせていく。

言葉 → 「わたし」 の構図。

 

自己紹介って実はこういうことをしているのではないでしょうか?

(もっと言えば、自己紹介に限らず、世界を言葉で表すいとなみは実はこのような構図なのではないでしょうか?)

こういう考え方を「言語論的転回」と言って……というのは置いておき。

 

イメージとしては、クッキーの型抜きです。生地は同じでのっぺらぼうなんだけど、どういうかたちの型で抜くかによってクッキーのかたちが変わってきますよね。

この時の型が、言葉です。

 

 

さて、こういう風にして 言葉 → 「わたし」 の構図であることが、どのように言霊と関係してくるでしょうか?

 

言霊というのは、「自分の発した言葉の通りになる」ことだと述べました。

そう、言霊というのは、

 

「わたしは○○だ。」と思い、言葉にしてしまうことで、本当に「わたし」の性質がそうなっていってしまうこと。

 

このことを指しているのではないでしょうか?

 

 

こう考えると、ぼくたちは「わたし」を表す言葉を取り扱う時に、気をつけなければいけないということがわかってきます。

 

もちろん「わたしには翼が生えていて、自由に空を飛び回ることができる。」とか、「この時期にさく椿の花は綺麗な紅色をしている。」というようなことは、試してみればおかしいかどうかわかります。

 

 

でも、「わたしがどんな人間か」を、試してみるなんてことができるんでしょうか?

 

例えば「わたしが内向的な人間かどうか」試してみる。

とりあえず直近で開催される飲み会に行く。

もちろん、親しげに話すことのできる相手もいれば、そうでない相手もいる。グループで話すのは苦手だけれど、飲み会の途中のイベントが嫌なわけでもない……なんちゃらかんちゃら。

 

このことから、「わたしが内向的な人間かどうか」を決めることができるでしょうか。

確かにAさんよりは話すのが得意じゃない気もするけど、Bさんほどじゃない。でもAさんはこの間自分で「ぼくは人と話すのは得意じゃないんだ。」とも言っていたし……。そもそも、飲み会で話せるというのが「社交的」ということなんだろうか?

 

「わたしが内向的かどうか」を決めるのはとても難しそうじゃないですか?

 

 

「内向的」というのは、とても抽象的な言葉です。だから、目で見たり耳で聞いたりして正解とか間違いとかを決めることはできません。

 

強いて言えば、「わたしがこう思ったからこうだ。」と決めることはできるのかもしれません。でも、その結論には根拠がないのではないでしょうか。

 

 

長々と語ってきましたが、言いたいことはこうです。

 

実験することもできないのに、「わたしはこういう人間だ」と言葉にしてしまうと、その言葉に引っ張られていってしまう。

 

これこそ、ぼくたちが世間で耳にする「言霊」のことではないでしょうか。

言霊の定義通り、「自分の発した言葉が本当になってしまって」います。

 

もっと強い言葉を使うと、言霊は「呪い」だ、とも言えるでしょう。

ぼくの尊敬する先輩がおっしゃっていました。

 

「自分の言葉は自分に跳ね返ってくる。言葉は呪いだよ。それに気づいてから、出来るだけ自分をくさすようなことを表に出すことはやめた。」

 

 

皆さんも、自分に「呪い」をかけてしまっていないでしょうか?

「それって実験して試してみたことなの?」という心の声を、自分に常にかけてあげるようにしてみるのも、いいかもしれません。

 

【どんな人なの?】流動する「わたし」

昨日の記事の続きのような話になると思います。

 

生きていると、「あなたはどんな人ですか、アピールしてください。」と言われる場面に多々遭遇しますよね。

 

学校の自己紹介、バイトや就職をするときの面接(バイトのときはそうでもないか?)、SNSのプロフィールなどなど……。

 

ぼくはこれが結構苦手です。自分がどんな人間なのかを言葉にすることに対して、迷いに迷ってしまうんですよね。たとえばtwitterのbio欄もしょっちゅう、ちょこちょこ変えています。

 

自分のことを言葉にする訓練が足りていないんだ。

自分のことをまだよく知らないんだ。

 

そう思うときもありますが、この考え方にはあまり納得できません。というのも、

 

そもそも、「わたし」というものは言葉で捉えられるような決まったかたちをしているようなものなのか?

 

という疑問が湧いてくるからです。

言葉というものは、一度表に出すと決まったかたちと意味をもたらします。「石はかたい」「雪はつめたい」「わたしは○○な人間です」……。

 

たとえば、「きみはSとMとどっちなの?」と聞かれたとしましょう。これは典型的な二項対立ですよね。

つまり、わたしはSですと言えば、じゃあMじゃないんだね。

Mですと言えば、じゃあSじゃないんだね。

普通に考えると、SでありかつMであるということは成り立ちません。

 

しかし、もうすこし掘り下げて考えてみたい。

SでありかつMであることって、本当にありえないことでしょうか?

おそらくそんなことはない。むしろどちらでも興奮するという人は、結構多いんじゃないかと思います。

SまたはMという性質の入れ替わりは、時間による時もあれば、場所や関係によることもあるでしょう。

このような矛盾が成立するのは、人間という存在が単純で、論理的にかっちり固まったミクロなものではなく、複雑な要素からなるマクロなものだからです。

 

そう考えると、「わたしはこういう人間です」と自己紹介をすることは、時事刻々と変化し、内部に矛盾したものすら抱え込むことのできるような複雑な存在を、一面的なことしか表せない「言葉」というもので掴み取ろうとするような、不可能ごとをやってのけることになります。

流しそうめんを考えてみてください。流しそうめんを箸ですくい取ろうとしても、多くの麺はあえなく流れ下っていきますよね(すごい執念で全部掴み取る人もいますね)。自己紹介をするときにこぼれ落ちていく「わたし」も同じようなものだと思います。

 

自己紹介というものは、決まったかたちと意味を与える「言葉」によって、かえってすくい取れなかった「わたし」を覆い隠してしまう「自己隠し」でもあるのではないでしょうか?

「本当のわたし」幻想

「本当のわたし」ってあると思いますか?

 

たとえば、すごく社交的な人が「本当のわたしは家で静かに過ごすのが好き」って言ったり、自分探しの旅に出たり、裏垢とか使って「これが本当のわたし」って言ったりしますよね。

 

ぼくは高校のころに読んだ小浜逸郎という人の文章がすごく頭に残っています。

「本当のわたしというものは存在しない。場所によって仮面(ペルソナ)を付け替えているだけなんだ。」

一見するとよくわからないけど、じっくり考えるとわかるような気がしてきます。

 

たとえば、はじめの社交的な人の例。ここで言っている「本当のわたし」って、どういう意味なんでしょう?

人に見せられない自分の姿のこと? でも、なぜそれが「本当」と呼ばれるのだろう。

気を使わなくていい状態のこと? 気を使っている状態って、「偽物」??

自分に何も余計なものが混ざってない状態のこと? 一人でいるときは、何も混ざってないと言えるのだろうか。

抑圧されているものがなくなって、解放感があること? もしも薬物乱用でそういう解放感を得られたなら、その時の自分は「本当のわたし」?

 

本当、本当って、一体なんのことを「本当」と言っているのだろう。

うつ病になって脳が変化してしまったわたしは、もう「本当じゃない」?

昨日のわたしが「本当」だとしたら、今日ぐっすり寝てスッキリしたわたしは「本当じゃない」?

子供の頃のわたしと今のわたし、どっちが「本当」のわたし?

 

どういう状態にいるときを「本当のわたし」だと感じて、その時の「わたし」は他の時の「わたし」とどう違うんでしょうか。

反省してみると、意外と根拠なく使っているような気がしてきます。小浜逸郎が言ったように、「どのわたしもわたしであって、わたしでないわたしなどない。」というのが、「本当」のことなのかもしれません。

 

一発目からこんな記事でいいのだろうか……。

取り急ぎの自己紹介

はじめまして。非常に簡単な自己紹介を取り急ぎ置いておきます。

大学の文学部に通学しています。「言葉」について考えることが好きなので文学部に進学しました。おかげで(?)これといったスキルが身についていません(自己責任)。文章を読むのが普通の人より得意になったことは間違いありません。言葉に対する感覚も、幸か不幸かかなり磨かれました。文章を読むことはこの上なく難しいことだということがわかったことも、得た知見の一つかもしれません。ぼくのアイデンティティはこれくらいです。ではまた。

 

twitterやってます https://twitter.com/caritas_arete